2018年11月05日

美山蔵元祭〜故郷忘じがたく〜

「故郷忘じがたく候」。司馬遼太郎が苗代川の沈寿官宅を取材で訪れた時の十四代を主人公として、島津義弘が朝鮮半島から連れ帰った陶工のその後の薩摩藩内で薩摩焼を生み出す苦悩とその子孫である十四代の韓国での交流が描かれた作品です。

小説に描かれた薩摩焼のふるさと、美山は、普段は静かな山里で武家門が点在し、薩摩の歴史を秘めた何度も訪れたくなるところです。

蔵元祭の日は天気が良いせいか人出が早く、車が渋滞して駐車場の空きを探すのに苦労しました。

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立派な武家門構えの沈寿官窯

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荒木陶窯にて

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白薩摩と黒薩摩

薩摩半島に上陸した陶工たちは、焼き物にふさわしい土を求めてこの地(苗代川)にたどり着き、窯を開いたそうです。

幕末に薩摩藩の財政を立て直した調所笑左衛門の墓や檀君を祀る玉山神社もある。

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故郷忘じがたく候の碑

美山はかつての郷士集落として武家屋敷の面影が年々薄れつつあるのが残念ですが、その代わり、薩摩焼の蔵元以外にも、新たな魅力としてカフェ、そば処、ガラス工房が立ち、美山を訪れる楽しみが増えています。

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2017年10月31日

真田幸村伝承の地

南九州市にあるクライアントの会社を訪れた際、近くに真田幸村伝承の地があるというので行ってみました。

真田幸村は、豊臣方の武将として大阪夏の陣で活躍し、猿飛佐助や霧隠才蔵といった真田十勇士が仕えたことでもよく知られますが、大阪の陣の後、島津の軍船で鹿児島に逃れ、今の南九州市頴娃町に潜伏したという伝承が残ります。幸村が鹿児島に逃れたという根拠は、幸村の子孫と称される墓(頴娃町別府大川)に六文銭が刻まれていることだそうです。

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幸村伝承の墓があるとされる雪丸集落は頴娃町に広がるお茶畑からちょっと奥に入ったところにあり、雪丸集落から少し山を登ったところに駐車場が整備されています。車を停めて、山道を10分ほど登っていくと、一基の古いお墓がぽつんとありました。

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なんでこんな山の中にぽつんと墓があるのでしょう。江戸の昔からここにあったのかそれとも元は別の地にあって今の地に移転されたのか。

豊臣秀吉が島津征伐のため薩摩藩の現在の薩摩川内市まで進出したり、関ケ原の戦いで島津義弘が大阪から船でかろうじて鹿児島に逃れたり、関ケ原の戦いに敗れて薩摩に逃れた宇喜多秀家を島津が匿ったという歴史があることに照らせば、同じ時代に、真田幸村が島津を頼って鹿児島に逃れたというロマンも史実の可能性としてなかなか捨てきれないものがあります。

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2017年01月28日

南日本新聞俳壇「屋久島」

南日本新聞の読者文芸欄に、今年で85歳になる実父の俳句の想い出が掲載されました。父は俳誌「ざぼん」に所属。

タイトルは「屋久島
屋久島は父が新採教員になって最初の赴任地。昭和29年というから戦後まだ10年もたたない頃。父によると鹿児島港からの船で船酔いに苦しみながら安房港に着き、そこからボンネットバスに揺られながら赴任地の栗生に降り立ったという。保護者からは二十歳そこらの坊主頭の詰襟が子どもの担任と知って驚いたが、温かく迎え入れてくれたらしい。当時の教え子と山にメジロ捕りに行ったり、栗生浜にウミガメの卵を採卵に行ったりしたエピソードを語ってくれました。

ウミガメの採卵のエピソードは面白い。時代は昭和29年。当時は浜に上陸したウミガメが産卵した卵を子供たちと採卵し(100〜150個のうち20〜30個は砂浜に残した)、採卵した卵を地域で売り歩き、売り上げた代金は学校の学用品代に宛てたそうです。保護者も亀卵の売上の用途を知っているので子供たちに喜んで協力してくれたそうです。

南日俳壇に掲載された父の想い出は、屋久島に赴任した年の夏休みに宮之浦岳に他の先生や職員と一緒に登ったときのもの。総勢7名が2泊3日の宮之浦登山に出発。安房から屋久島営林所のトロッコ列車に乗せてもらい、初日は小杉谷集落(当時屋久杉の伐採で多くの関係者とその家族が小杉谷に暮らしていた)にある分校の計らいで宿直室に一泊し、翌日に湿原の花の江河を経て宮之浦岳の山頂へ。登頂できて達成感で一杯だったんでしょう。みんなで万歳三唱したそうです。

夏の岳万歳の声散りめきぬ

夏山や眼下に見ゆる種子島

父の屋久島への赴任は7年におよびその間に母が嫁ぎ、姉が生まれました。栗生小学校を一人だけ離任するとき教え子や保護者が栗生浜に大勢見送ってくれたそうです。当時の写真を見ると手漕ぎのはしけ船(伝馬船)に乗った父と幼い姉を背負った母がたくさんの紙テープを手に持ち見送りの子供たちや保護者と別れを惜しんでいる様子が見られます。離島に赴任する先生、離島から離任する先生を紙テープで子供たちが見送る風景は今も各地の港で見られる鹿児島ならではの風景です。

屋久島でセミナーを開いたとき、私の名前を聞いて懐かしがった当時の教え子の方が栗生からきてくれました。父は栗生小学校の同窓会(還暦祝い)に招かれ、50年ぶりに当時の教え子と再会を果たしました。今も当時の教え子の方との交流があるようです。なんだかうらやましいですね。

posted by KH at 16:21| 歴史・文化

2015年09月28日

2015 西郷どんのツン

9月の上旬、商標相談で薩摩川内市の東郷町を訪れました。
梅で有名な藤川天へ。東郷町の中心から離れた山の中にありました。

2015 tun s.JPG 藤川天神は大宰府に左遷された菅原道真公がさらに逃れて藤
 川北野の地に隠遁、没した地に創建されたとの言い伝えがあ
 る。実際はこの地は太宰府天満宮の荘園でそこに勧請された
 神社が発祥とされている(Wikipediaより)。

 島津氏が入ってくる前は群雄割拠の地でしたから面白い歴史
 がありそうです。

 <西郷どんのツン>藤川天神を訪れると、西郷さんの愛犬つんの銅像がありました。由来を読むと、もともと藤川北野のお百姓さんの飼い犬であったのを西郷さんが所望し、馬一頭と引き換えに西郷さんの愛犬となったのだそうです。
藤川天神は梅のきれいな頃に訪れたい場所ですね♪
posted by KH at 00:00| 歴史・文化

2015年08月11日

薩摩よりみち風景街道

子供が出水市のお友達ん家にお泊りするというので車でドライブを兼ねて一緒に出かけました。西回り自動車道に乗り薩摩川内市のICで降りて後は国道3号線(*)をのんびり北上。途中の海水浴場で休憩し(単に立ち寄っただけ)2時間でお友達ん家に到着。鹿児島市からもう一人のお友達も一緒で楽しいドライブでした。

子供たちと別れて帰りはどっちを通って帰ろうか迷いましたが、高尾野麓に立ち寄ることに。ここは素晴らしい武家屋敷通りが残っています。

<高尾野麓>
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高尾野町から山越えする国道504号線(紫尾道路)を通って帰りました。504号線は名ばかりの国道でなんと1車線!の山道(林道)。途中に長いトンネルが開通してましたが通過するのは自分たち1台だけ。しかも長いトンネル内は霧が立ち込めなかなかスリルな国道。堀切峠を越えると後はずっと下り坂でいくつか集落を通るとさつま町の市街地にでます。いや〜めったにできない経験でした。

<国道504号線>
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道の駅ひわきでお昼を食べ、入来峠を通って鹿児島市に戻りました。子供たちはお友達の家で楽しく過ごさせてもらったとか。感謝です。

(*)東シナ海沿いを通る国道3号線が国土交通省が選定する日本風景街道の九州ルートに、「薩摩よりみち風景街道」として選ばれた。海沿いを走るこのルートは気持ちいい。天気がよいと甑島も遠くに見えるし。
posted by KH at 23:09| 歴史・文化