南九州市にあるクライアントの会社を訪れた際、近くに真田幸村伝承の地があるというので行ってみました。
真田幸村は、豊臣方の武将として大阪夏の陣で活躍し、猿飛佐助や霧隠才蔵といった真田十勇士が仕えたことでもよく知られますが、大阪の陣の後、島津の軍船で鹿児島に逃れ、今の南九州市頴娃町に潜伏したという伝承が残ります。幸村が鹿児島に逃れたという根拠は、幸村の子孫と称される墓(頴娃町別府大川)に六文銭が刻まれていることだそうです。
幸村伝承の墓があるとされる雪丸集落は頴娃町に広がるお茶畑からちょっと奥に入ったところにあり、雪丸集落から少し山を登ったところに駐車場が整備されています。車を停めて、山道を10分ほど登っていくと、一基の古いお墓がぽつんとありました。
なんでこんな山の中にぽつんと墓があるのでしょう。江戸の昔からここにあったのかそれとも元は別の地にあって今の地に移転されたのか。
豊臣秀吉が島津征伐のため薩摩藩の現在の薩摩川内市まで進出したり、関ケ原の戦いで島津義弘が大阪から船でかろうじて鹿児島に逃れたり、関ケ原の戦いに敗れて薩摩に逃れた宇喜多秀家を島津が匿ったという歴史があることに照らせば、同じ時代に、真田幸村が島津を頼って鹿児島に逃れたというロマンも史実の可能性としてなかなか捨てきれないものがあります。